☆ 「考える」とは何か? ☆

井出 薫

 デカルトはすべてを疑い、しかしながら、疑うことができないものとして「考える私」を発見した(と信じた)。しかし、デカルトの議論には見落としがある。

 私はパソコンを見ている。だが、パソコンは本当は存在しないのかもしれない。私は夢を見ているのかもしれない。薬物の影響で幻影を見ているだけかもしれない。三次元のバーチャルリアリティーマシンで映像を見ているだけなのかもしれない。いずれにしろ、パソコンの存在を疑うことはできる。事実、在ると思ったが本当は存在しなかったという経験は少なくない。

 ここで、デカルトは、目の前に見える物は存在しないかもしれないが、物が見えていると「考えている」ことは疑いようがないと主張する。「考えている」は直接的な事実だからだ。このデカルトの主張に反論することは難しい。すべてを疑うというデカルトの試みは途方もないものだが、それでも、その趣旨を理解することはできる。だが、今ここで何かを考えているという事実を疑うことは極めて困難だ。そこまで疑うと何も意味あるものはなくなる。−ウィトゲンシュタインならば、「それを疑うことには意味がない。」と言うだろう。−

 「考えている」ことは確実だと言ってよい。だが、問題は、「考えている」ことが確実ならば、「考える私」の存在は確実なのかということである。(正確を期するならばここで「考えている私」と表記するべきかもしれないが、「考えている私」という表現は些かくどい感じを与えるので、「考える私」と表現しておく)

 「考える」とは、「誰かが考える」ということであり、誰(=主体)が存在しない宙に浮いた「考えている」なるものが独立に存在するなどということはありえない、と誰もが思うだろう。事実、デカルトもおそらくそう考えた。「考えている」ことが確実であるということは、「考える私」の存在が確実であることに等しいと。

 しかし、デカルトがすべてを疑うと宣言したにも拘わらず、「「考えている」が確実」=「「考える私」の存在が確実」という等式を無条件に承認したのは些か軽率と言わなくてはならない。事実、18世紀の著名な哲学者ヒュームは、「私」の存在を確実とみなすデカルトの主張は間違いだと論じた。ただ様々な感覚の束があるだけで、「私」なるものはどこにも見つからない、ヒュームはこう主張した。もちろん、ヒュームとて、「私」など存在しないと主張しているわけではない。デカルトが信じたほど「私」の存在は確実ではないと言っているだけだ。とは言え、この指摘は決定的な意味を持つ。「考えている」と「考える私の存在」との間には飛躍があり、前者から直接的に後者は導出されないことが明らかになった。

 「考えている」と「考える私」の問題は多くの哲学者により考察されてきた。20世紀においては、フッサール、ウィトゲンシュタインのような優れた哲学者がこの問題と格闘した。しかし、多くの優れた研究がなされているにも拘らず、統一された見解はない。哲学者の数だけ答えがあると言っても過言ではないほど、多様な見解が存在する。

 「考えている」とはどういうことかという問題には様々な解答が存在するが、「考えている」ことの確実性を否定する者はいない。ウィトゲンシュタインなら「確実だ」と言わずに「疑うことが無意味だ」と言うだろうが、普通に考えれば同じことを意味すると言ってよい。

 (確実な)「考えている」ということから、何が見つけ出されるか、それはどのような意義があるのか、「私」の存在の確実性とはどういうことなのか、こういう様々な問題が「考えている」という事実に纏わりついている。
 さらに、「「考えている」とはどういうことか。」ということ自体が「考えている」ことに属する。つまり「考えている」には自己言及的な性格がある。この性格は、問題を複雑で難解なものとする一方で、哲学的探究に重要な手掛かりを与えてきた。たとえば、フッサールは「考えている」の探究において「志向性」に着目したが、「志向性」は「考えている」ことの自己言及的な構造に着目することで理解される。

 最もありふれたものであり、最も身近なものでありながら、「考えている」あるいは「考える」は謎に満ちている。「哲学」などという奇妙な学が未だに生き残っているのは、その所為だ。

 忙しい現代、こんな問題を考えることは時間の無駄と思う人が多いだろう。ウィトゲンシュタインの言葉を引用して、こういう問題は無意味な問題=擬似問題だとして片付けてしまいたくなる人も居るだろう。だが、私たちは考えて生きている。だから、ときには、「考えている」ことを考えても悪くない。それに、脳科学や人工知能研究などでは、こういう考察も結構役立つ。

(H16/4/14記)


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