☆ フレーム問題 ☆


井出 薫


 人間並みに任意の状況に対応できる柔軟なコンピュータを実現しようとするとき、私たちの前に立ちはだかる壁がフレーム問題だ。

 井出が駅に向かって歩いている。寝坊して会社に遅刻しそうだ。そこに、友人の里見がやって来て、「井出、久しぶり、元気」と声を掛ける。井出はどうするか。おそらく、「よう、元気、悪い、先を急いでいる、夕方電話するよ。」とでも返答して、駅に向かって急ぐだろう。

 友人に対して愛想をとりながら、遅刻せず出社するための適切な措置を講じる、ここがポイントだ。このようなことをコンピュータやロボットにやらせることは極めて困難だ。課題が、友人への適切な対応と会社に遅刻しないという二つの条件だけならば、問題解決のプログラムを書くことは容易だ。しかし、人が道を歩いているとき、解決しなくてはならないことは無数にある。信号が赤のときは青になるまで待つ、水溜りがあればそれを避ける、人が倒れていれば声を掛ける、電車に遅れそうなときには時間を確認する、など無数の課題が存在する。

 さらに、ある事象が発生したときに、適切な応対をどうやって決定するかという問題がある。私たちは知識を活用する。だが、知識も無数にある。「里見は友人だ。」、「友人には愛想よくするものだ。」、「出社時間には遅れてはならない。」、「里見は運転しない。」、「日本の首相は小泉さんだ。」など枚挙の暇がない。このうち、最初の三つの知識は問題解決に関係するが、後の二つは無関係だ。その他、この状況には無関係な無数の知識がある。ここで、どうやって、最初の三つは関係があり、後は無関係と分かるのか。問題解決に関連した知識の枠(フレーム)をどのように決めればよいのか、これがフレーム問題だ。

 果たすべき課題が少数で、私たちの知識も少数なら、フレーム問題は苦もなく解決される。だが、人間が現実に暮らす世界には無数の課題があり、私たちは無数の知識を持つ。このような状況で、フレーム問題を解決して、適切な対応を取るためにはどうすればよいのか。どのようなマシンで、どのようなプログラムを書けばよいのか、これが実に困難な問題だ。

 この問題は解決されていない。解決される見込みもない。お陰で、現在のコンピュータはごく限られた課題しか扱えない。コンピュータ制御のロボットはごく限られたことしかできない。

 アトムやHALのようなロボットはフレーム問題を解決している。どうやって?もちろん、誰にも答えられない。

 アルゴリズムを見出し、それに従いプラグラムを書き実行させるという現在のコンピュータ技術では、アトムやHALは実現できないと私は予想する。

 だが、「人間だって、アルゴリズムに従い思考して行動している。人間ができることをコンピュータやロボットが実行できないはずがない。」こういう考え方が人工知能論では依然として根強い。計算主義と呼ばれる立場がその急先鋒だ。言語学者で体制批判の著名な評論家であるチョムスキーなどもその一人だ。

 私は、これはドクマに過ぎないと考える。自然は数学という言葉で書かれているというドクマだ。

 自然も人間も、数学という言葉で書かれているのではない。数学は、自然と人間を合理的に把握するために、人間が作り出した(非常に強力な)道具に過ぎない。しかし、それが世界を覆い尽くすことはない。このように考えたからと言って、霊魂など物質に還元されない神秘的な存在を想定しなくてはならなくなるわけではない。

 では、人間はどうやって無数の課題を適切に処理することができるのか。おそらく、問題の認識⇒問題解決という図式で人間の行動と思考を捉えたのでは、謎は解けない。人間は数理論理学的シミュレーションではない。フレーム問題は疑似問題だ。

 人間は自然現象だという当たり前の事実に、謎を解く鍵がある。

(H15/4/18記)


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